asamicroの 自家製あんこ と おはぎ について

自家製あんこをつくる理由について。

私は自家製のあんこを作っている。和菓子のあんこが好きではあるが、「好きだからつくる」という理由で作り続けているわけではない。小豆を洗い、渋切りをし、ひたすら煮詰めて灰汁を取り、水を足して、、、最後は砂糖を加えて艶が出るまで優しく混ぜ合わせる。シンプルだけど、時間がかかる。常に鍋のそばにいる。1回3時間くらい。

祖母が鍋と向き合っていた時間は、今と違って、スマホでサクッと「ながら見の暇つぶし」ができないし、忙しい日々の中で、利益目的外で台所にひとり立ち続けていた彼女の気持ちが知りたい。彼女におはぎを作らせた環境を知りたい。

愛情が誤配送され続けることは、不幸なことなのだろうか。

正しく、愛情が伝わることが正義なのだろうか。

「欲望」は「希望」であり「失望」であるとき、あなたとわたしは、どんな顔で身体を動かしたり、甘い食べ物を飲み込むのだろうか。

これは、大きなニュースでもなんでもなく、私が自家製あんこを作り続けたいのは、今日も会話の中で生まれた 小さな虚しさや優越感 について考えていきたいのだと想う。

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「存在価値」と「欲望」を満たすための行為として。

私の祖母、ヨネコは、神奈川県横須賀市浦賀の漁師を営む両親のもとに生まれた。昭和初期、現在の何倍もの漁獲量を誇った浦賀漁業には、独自の風習があった。毎年12月1日、漁師たちの海上安全を祈願し、海へおはぎを投げるのである。ヨネコは幼い頃から、女たちが総出で仕込む大量のおはぎ作りを手伝って育った。その経験は今も生きており、祝い事やお彼岸のたびに大量のおはぎをこしらえては、近所に配り歩くのが彼女の日課だった。

その後、同じく漁師となった祖父と結婚。30代で自身の店「和風スナック松」を構えた。わずか12席ほどの小料理屋だったが、店は常に客で溢れ、一度として赤字を出すことはなかったという。

浦賀漁業に勤める祖父母の家庭は、商売繁盛高級取りとして裕福でありながらも、漁業組合の会合などの付き合いも多く、支出が嵩む日々だった。そんな状況も相まって祖母の店、和風スナック松では“安月給のサラリーマンでも1,000 円で楽しく飲めて笑顔になれる店” をコンセプトに、お酒と魚のつまみをメインに小料理を出していた。

祖母は「ここは私がつくった世界で、大変だったけどお客さんが笑ってそれぞれ時間を過ごし、またねー と帰ってゆく空間は本当に楽しくて、私の生き甲斐であり心が踊る日々だった」と話した。

のちにこの店は、経営には問題がなかったが、家族との時間を優先する為、泣く泣く閉店させ、祖母も漁師の妻として働いた。

漁業による釣り船のお客さんの集客などは、店での交流関係を生かし、祖父を浦賀漁業組合の組長にまで成長させ、夫婦で功績を残し、裕福な生活を送っていた。その後、私の父が生まれるが、私の父は 「あんこは嫌い」、「おはぎは食べられない」と言っていた。そして、家庭の愛を知らないで育ったと私は父から聞いた。

その後、父は母と結婚し私と妹が生まれ四人家族となるが、嫁姑の関係は穏やかなものでは無かった。母は祖母からいじめられていた。そして私の家族は解散した。

祖母は今、祖父が他界した家で独り暮らしている。「仕事が生き甲斐だった。必死に働いた。祖父の酒や女性関係にも耐え抜いてきた」――そう語る彼女の姿はたくましい。しかしその言葉の端々には、かすかな寂しさと後悔が滲んでいるようにも感じられた。私はそんな祖母から、あんこの炊き方とおはぎの作り方を学びに行った。

彼女の生き様や、周囲への過剰なまでのサービス精神。それと引き換えに膨らんでいったであろう「孤独」を、私は無視することができなかった。現在、彼女にとってのおはぎは単なる食べ物ではない。それは自慢の「作品」であり、他者に振る舞うことで得られる交流こそが、彼女の自己肯定感を支え、癒やし、新たな生き甲斐となっているのだ。

この一連の物語に触れ、私は孫として、そしてダンサー・振付家として思考を巡らせる。社会や家族といった枠組みを超え、この世界に生きる一個人の「生き甲斐と孤独」、そして「自然治癒力」について。私は「あんこ」を入り口とした振る舞いを通じて、その本質をパフォーマンスとして表現したいと考えている。

※2024年に記載した内容です。

撮影:前谷開

自家製あんこ を提供しているイベント

「おはぎ」「小豆」や「祖母の人生」をテーマにした過去作品